昭和44年2月11日  夜の御理解



  信心は、目に見えるところより目に見えないところを大事にしなければなりません、その目に見えないところを粗末にしておりますと、言うようにあの、四神様ですか、四神様のお言葉の中にあります、本当にあの信心させて頂くならばそこんところをいよいよ大事にして行かなければいけないと思うですね。
  もう、このくらいな事、些細な事という事の中におかげを受けるかおかげを落とすかの、言うなら、決めてがあります。
  例えば、私があの、お風呂へ入らしてもらって、あのお風呂をはいっ、に入ってからのこれは、私の、何て言うでしょうかね、まあ私の信心というものが、誰も見ておるわけではありませんし、ですけれども私はもう必ず、あの湯置き半分とこう決めておりますから、もうお湯を湯置き半分以上に使いません、それは、不潔になってはなりませんから沢山、お湯は沢山使います、使いますけれども、湯置けに汲む時にいっぱいこう汲まないというだけのことです、もう丁度湯置き半分で良いんですよね、それを何遍も繰り返しますけれども、もうこれは私があの、ちょっと多すぎたらわざわざこう溢してからでも、また他に、別の他に桶にあの少し移してでも、必ず半分にいたします、ですからそういう事を咎めなさるはずはなかろうようにありますけれども、心にそうと決めさして頂いたことを、あの、さしてもらうところにです、まあ言うならば、本当の名人芸とでも言ったようなものがあるように思いますですね、例えばあの、まあ偉い先生が講師でみえられた、その先生はお食事の時にお漬物がでると、必ず尻っぽの方の頂きにくいところから頂きなさると、必ずお家でそうなさると、ということを聞いておった先生が、その、お漬物、お食事を差し上げられる時に、その事に感心を持っておられた、他所でだからそうよかろうようにあるけれども、やっぱりその一番下の切れ端のところからお取りになったというのである、ね、ですからもうそこにあの偉い先生と偉くない先生の違いがあるんですよ、決してね私が皆さんに湯置き半分に決めなさいとか、ね、お漬物は頂きにくいところから先に頂きなさいと、ということを言っておるのじゃないです、その人の信心なんです、その人の信心がそこにそういう風に現れるという事なんだ、ね、今月は、ぜんねつ費だけでも十何万、払う、あぁこれはもう合楽ならでは出来ることじゃないなぁと思うんです、私は十、十何万か二十万かかっても良いと思うんです、必要な事に使わして頂きならば、どんなにばばいうほどに、電気を点けても、それが必要なとなら、私は決してそれはお粗末もならなければ御無礼にもならないとこう思うです、けれども必要でないところに私は、「もうよかよかそん細か電気じゃから」っち言うて放からかしてあるようなことは許されないと思います、私はいつも最後に一周いたしますとですね、もうどこんでもその電気が点けっぱなしにしとるとこがあるです、もう本当に神経があの、行き届かないなぁ、目が荒いなぁとこう思うんです、ね、例えばあの、今日は何かお休みでしたからテレビを見せて頂いておりましたら、何か例の、がいつもあのありよりましたですね、舞台中継なんかが、まあ舞踊なんかあの名人の人達がやってました、落語なんかもう今日は名人供の人達がやっとりのを丁度、四時の御祈念まで今日は見せて頂いておったんですけれども、もう本当にそういうところまではと言うようなところを大事にしますね、そこが名人と名人でない者の違いなんですよ、ね。
  あの先日、う~、古賀先生ん所の宅祭の日でしたかね、あの、忠臣蔵をお芝居で出してましたよ、あれはあの、う~ん、誰ですかねあの、元のフクスキですね、今はシガンと言うですかねシガン、シガンのあれでしたね、あの朝のハンガンの(?)ですからあれは何て言うですか、をやっておりましたが、もうとても舞台から見ておったら絶対見えまいと思うけれどもですテレビで見るから見えるわけなんですけれども、もうその芸の小さいことにね、驚くばかりですね、例えばあのおショウコウをするところがありますが、その時に言わばあの、口の中で言うなら南無阿弥陀仏と唱えておるということでしょうね、唇をこう少し動かすんですよね、唱えておるんじゃないんです、一つの演技です、ね、もう心憎いまでに小さいところの演技をその、いたします、いわゆる、そのそこになら名人と名人じゃない者の違いがある、信心でもそうです、本当におかげを頂いて行く人、頂いて行かない人、言うなら徳を受ける人、徳を受けきらない人は、そういうところをお粗末にする人と、ね、「このくらいな事は」と言うてそこをおろそかにする人の違いだとこう思うのです、とりわけ信心さして頂く者はですね、本当にあの細かいところに、それは人が見ておろうが見ていまいが、それは裏であろうが表であろうがです、そういうところを大事にする時にです、特に神様の感動を呼ぶ事があります、ね、そこからおかげの受けられる、一様に信心の稽古をしておるのに、この人達がどうしてぐいぐい信心が進んで行かれるだろうかお徳を受けて行かれるだろうかと、いう人はそういうところに、開きが段々出けてくるのじゃないでしょうか、ね、そういうところ一つどうぞ大事にして、「目に見えるところは大事にするけど目に見えないところをお粗末にします」とこう言うておられる、だからむしろそういうところに心を掛けさしてもろうて、そういうところを大事にして行くというような信心が大事だという風に思うんです。
  その信心をさして頂くならば、目に見えるところより目に見えないところ、またはこうと自分の心に定めさして頂いたことはです、それは人が見ておろうが見ておるまいがそれを行じぬかせて頂くというところに、ね、え~、私があの湯置き半分を、実行さして頂くようになってから、ね、私は必ず二つの湯桶を使うんです最後に上がる時に、ゆすぎに、ところが片一方のがちょっと多いすぎたから、片一方の方んとにこう移してから丁度半分づつぐらいに、ね、こうさして頂いた時に、この湯桶にカチッとおいさみがつくんですからね、「うんなら私もいっちょ真似してそげんしよう」と言うてどうっちいうことじゃない、問題は自分でこうと決めておる事をです、ね、例えば私はただ実行しておるだけのことなんだ、ね、なら湯を沢山使うちゃならんというのじゃない、湯は私は限りなきに使う、かかじでも何回でもする、ね、けれども、湯桶に使う、お水を使う時には決して、あれにすずれるようにガバーッと汲んでから、かかるようなことはせんぞとこう心に決めておる、ね、それをただ実行するだけである、もうこういうお話しをいたしますならもう限りがないことでしょう、お互い心掛けさせて頂くなら、ね、目に見えないところを大事にさしてもらう、ね、神様はそういうところまでは目を止めておられまいと思うけれども、いやむしろそういうところに神様は目を止めておられる、だから神様が喜んで下さるのです、そこからおかげが受けられる人、そこからおかげを落としていく人の開きがそこから出けてくるんですよね。                                                      どうぞ。